canosa story Vol. 7 九谷焼の魅力

canosa story 第七回目

九谷焼とは、石川県南部の南加賀地方を中心に作られている、山水、花鳥など絵画的で大胆な「上絵付け」による装飾が美しい陶磁器で、日用品としての皿や茶碗のほか、美術品としても広く認知されている陶磁器です。

九谷焼の歴史は、江戸時代初期までさかのぼります。茶人としても知られる加賀支藩・大聖寺藩初代藩主、前田利治のもとで作り始められた磁器だといわれています。陶石の産地である九谷村(現在の石川県加賀市山中温泉の奥地)にちなんで「九谷焼」と呼ばれるようになりました。

前田利治は藩士の後藤才次郎を有田(佐賀県)へ技能習得のために派遣したあとに九谷に窯を開きますが、わずか4050年ほどで閉鎖されました。今なおその理由は明らかにされておらず、九谷焼のミステリーとされています。

この時期に製造された九谷焼は「古九谷(こくたに)」と呼ばれ、今も多くのファンの心をとらえ、珍重されています。豪快で力強い骨描き(彩色前に墨で輪郭線を引くこと)と男性的な彩色が特徴で、「柿右衛門」「鍋島」などと並ぶ美術品として高く評価されています。

突然の九谷窯の閉鎖から約100年のち、加賀藩は陶工・文人画家の青木木米(もくべい)を京都から招待し、金沢に春日山窯を開きました。これを契機に小野窯、吉田屋窯など数々の窯が作られ、九谷焼は再興を果たしました。

この時期の九谷焼は「再興久谷」と呼ばれています。明治時代になると、小野窯の九谷庄三による彩色金襴手という絵付技法が有名になり、「庄三風」と呼ばれ人気を博します。庄三風の九谷焼はウィーン万博に出品され「ジャパンクタニ」として世界中にその名をはせることとなりました。

九谷焼の特徴は「上絵付け」による色絵装飾の美しさにあります。上絵付けとは、本焼きした陶磁器の釉薬(ゆうやく)の上に顔料で文様を描き、再度焼く技法のことで、九谷焼のほかにも有田焼に使われています。

九谷焼の特徴は、「呉須」(ごす)と呼ばれる藍青色で線描きし、「五彩」と呼ばれる赤、黄、緑、紫、紺青の五色の絵の具を厚く盛り上げて塗る彩法。絵柄は、山水、花鳥など絵画的で力強い印象を与え、吉田屋窯、宮本屋窯、小野窯などがそれぞれの窯の特徴を活かした作品を生み出してきました。

吉田屋窯の決して赤を使わない「青九谷」、宮本屋窯の赤絵金彩の「赤九谷」などが有名です。現代では、九谷焼は宮内庁からの贈答品として使用され、英国チャールズ皇太子御成婚祝としても献上されるといったように、日本のみならず世界中の人々に親しまれています。

九谷焼の代表的な作風は次の通りです。

【古九谷】
狩野派の名匠・久隅守景の指導を受けたといわれる、赤、青、黄、紫、紺青の五彩を用いた技法。大胆な構図と男性的な画風が特徴です。

【木米】
京都の文人画家・青木木米の指導により、全面に赤を施し、主に五彩を使って中国風の人物を描き込んだ画風です。

【吉田屋】
赤を使わず、青、黄、紫、紺青の四彩を用いた絵柄が特徴。模様や小紋などで隙間なく、磁器全面を埋め尽くすような絵付けを施す技法を用いています。吉田屋伝右衛門が青手古九谷の塗り埋め様式を再興したものです。

【飯田屋】
赤で綿密に人物を描き、まわりを小紋などで埋め尽くし、ところどころに金彩が施された画風。飯田屋八郎右衛門により完成された技法で、「九谷赤絵」はこの画風から始まったとされます。

【庄三】
古九谷・吉田屋・赤絵・金襴手のすべての手法を取り入れた、彩色金襴の様式。九谷庄三が確立。明治以降、産業久谷の主流となりました。

【永楽】
永楽和全による京焼金欄手手法。赤で下塗り後、その上に金で彩色するのが特徴です。


進化し続ける九谷焼の魅力

「九谷焼」は芸術品として海外で高く評価される日本の伝統工芸のひとつ。現代でも、人間国宝 吉田美統(よしたみのり)の「釉裏金彩(ゆうりきんさい)」や人間国宝 三代德田八十吉(故人)の「彩釉(さいゆう)」、仲田錦玉の「青粒(あおちぶ)」といった新しい作風や表現方法により、モダンで優美な九谷焼が生み出されています。

2024年元日に起きた北陸地震では、canosaとお取引のある九谷焼の窯元や販売店でも国宝級の作品や在庫が数百万円分の損害だったということです。それでも「さらに被害の大きかった能登地方に比べれば…人的被害はなかったので」と能登を気遣う優しさと忍耐強さに胸が熱くなりました。canosaでも九谷焼はとても人気があります。比較的お手頃な転写や吉田屋風など、九谷焼の魅力をご家庭でも取り入れやすいものを中心にご用意しております。普段使いの九谷焼。食卓に彩りを取り入れてはいかがでしょうか。微力ながら、その購入金額の1部を石川県に還元しております。